時代を築いた名馬”セイユウ”

時代を築いた名馬”セイユウ”とは

サラブレッド系種が主流である競馬界において、セイユウは珍しいアングロアラブとして活躍した競走馬です。スピードを追い求めるあまり繊細なサラブレッドに対し、アングロアラブはアラブ種との混合種として身体の頑丈さを加えた品種となっており、セイユウはアングロアラブの中でも重賞獲得に成功した名馬と言えるでしょう。
セイユウはイギリスで調教を受けたライジングフレームを父馬に持ち、 弟猛を母馬に持ちます。父馬であるライジングフレームは競走馬時代に好戦歴を残し、種牡馬となってからはセイユウのほか、ライジングウイナーやシュンエイ、ヒシマサルなどの名馬を輩出しました。
ライジングフレームの血統を継ぐセイユウは、馬主として河野通、調教師としては稲葉秀男を迎え、1956年にデビューを果たします。

時代を築いた名馬”セイユウ”の活躍

初戦はアラブ系オープンで2着となり、アングロアラブ系の競走馬が競う読売カップ(春)では圧倒的な強さを見せて1着を飾っています。その後もアングロアラブ系のレースでは勝利し続け、サラブレット系も出走する七夕賞においても1着になりました。セイユウの経歴の中でも名勝負として知られるセントライト記念では、ラプソデーやギンヨク、セルローズなどの強敵を破り、周囲の予想を覆し、見事に1着を獲得しました。

その後もアングロアラブ系としてサラブレッドへの挑戦を続け、オールカマーにも出走しています。最後のレースとなったのは秋の天皇賞で、6着の結果を残したものの、当時のセイユウは種子骨を骨折する怪我を負っており、このことが成績が振るわなかった原因であるとされています。

通算成績は49戦26勝、しかしながらこのうちサラブレッド戦は24戦5勝と、サラブレッドに挑み続け、その生涯に華やかな競走成績を築いたアングロアラブの名馬です。

時代を築いた名馬”ハクチカラ”

時代を築いた名馬”ハクチカラ”とは

ハクチカラは、東京優駿(日本ダービー)と秋の天皇賞、有馬記念に優勝し、日本馬として始めて海外へ長期遠征を行った競走馬として知られています。

ハクチカラの功績は何と言っても海外への長期遠征です。ダービー馬で秋の天皇賞や有馬記念では単勝支持率がそれぞれ85%、76%となり、G1において単勝元返しの記録を持つ、現役最強の年度代表馬の海外遠征は、当時、まだ競馬後進国であった日本に多大な影響を与えました。

史上最多勝利数を誇る尾形藤吉調教師は現地に適応する重要性と痛感し、また、主戦騎手の保田隆芳も競馬文化の違いを肌で感じ、現代では当たり前となった鐙を短く詰めて騎乗するモンキー乗りや、鞭などの馬具などを持ち帰り、日本中央競馬会に調整ルームの設置を求めるなど、日本競馬の発展に大きく貢献しました。もちろん、これだけの名馬を未知の世界へ送り出した馬主の西博の勇気も称えられるべきものです。

時代を築いた名馬”ハクチカラ”の活躍

アメリカに遠征したハクチカラの競走成績は17戦1勝であり、目立った戦歴を残せたわけではありませんでした。しかし、大敗を繰り返しても遠征を続けた結果、徐々に好走できるようになり、11戦目のワシントンバースデーハンデキャップで、16頭立て15番人気と戦前の予想を覆し、当時の世界賞金記録を持っていたラウンドテーブルを抑えて日本競馬史上初となるアメリカ競馬の勝利を達成します。

その後もアメリカは走り続けたハクチカラは日米通算成績49戦21勝で引退し、日本で種牡馬となります。しかし、当時は内国産種牡馬が軽視されていた時代であったことから、1968年にインドに寄贈され、多数のインドクラシック馬を輩出しました。

ハクチカラの経歴は、世界へ飛び出し日本競馬の発展させる為のものと言っても過言ではなく、その功績を称え名馬が集う顕彰馬に選出されています。

時代を築いた名馬”メイヂヒカリ”

時代を築いた名馬”メイヂヒカリ”とは

1950年代に活躍したメイヂヒカリは、父馬としてクモハタ、母馬はシラハタ、母馬の父はイギリス産の名馬プリメロです。プリメロは競走馬としての現役時、アイリッシュダービーなども制したサラブレッドで、現役引退後は産駒となり、後に活躍する名馬を多く輩出しました。メイヂヒカリもまたプリメロの血統として馬主である新田新作に期待をかけられ、調教師である藤本冨良の調教を受けるうちに馬体の体格の良さなどが注目を浴びるようになりました。

時代を築いた名馬”メイヂヒカリ”の生い立ち

3歳となった1952年に中山競馬場で初戦デビューを飾ると、周囲の予想通りの勝利を飾ります。当時競馬ファンの中でも期待されていたイチモンジ、ケゴンとともに、朝日杯3歳ステークスなどでも人気を博しました。

1955年に4歳になるとスプリングステークスに出走しますが、観客に1位人気に選ばれつつも、残念ながらこのレースでは5着に甘んじます。この後、メイヂヒカリの右足に故障が発覚、これが不調の原因であったともされています。

怪我からの復帰後には毎日王冠やオールカマーに出走、2着、優勝とそれぞれに戦歴を残し、菊花賞でもライバルを抑えて圧勝しました。菊花賞出走時、メイヂヒカリのライバルとされていたのはオートキツで、場内のファン人気としてはオートキツが1位、メイヂヒカリは2番人気でした。

時代を築いた名馬”メイヂヒカリ”の活躍

5歳となった1956年も天皇賞で圧勝、最後のレースとなる中山グランプリでも強さを見せつけて日本レコードを記録しました。メイヂヒカリは中山グランプリを最後のレースとして競走馬を引退しましたが、引退後には種牡馬としてその血統からハーバーヒカリやブラックメイジなどを産出、さらに競走馬時代の競走成績を称えられ、1990年に顕彰場としての表彰を受けています。経歴は生涯にわたり華やかで、通算成績は21戦16勝となっています。

時代を築いた名馬”トキノミノル”

時代を築いた名馬”トキノミノル”とは

トキノミノルはデビュー当初はパーフエクトの名前で出走をしていましたが、その名前の通り競走成績は完璧なものであり通算成績が10戦10勝の正にパーフェクトなものだったのです。
そのため、日本の競馬史上を代表する名馬の一頭なのですがトキノミノルは不運にも東京優駿を優勝した後、破傷風に感染をして急死してしまい幻の馬と呼ばれるようになりました。

馬主は競馬のみならずプロ野球のオーナーとしても有名な永田雅一が所有をしていて、映画プロデューサーであったことから後年にはトキノミノルをモデルとした幻の馬と呼ばれる映画も作られました。
調教師は数々の名馬を育て上げた、田中和一郎であり調教師の経歴の中でもトキノミノルは特別な馬だったのです。

時代を築いた名馬”トキノミノル”の活躍

トキノミノルは希少が悪い部分があり、初戦は出走登録を拒否されるところまでだったのですがそれでも無事に出走することになり、函館800mをレコードタイムで優勝をしました。
この勝利を予想していた人は少なく、人気も二番人気で後の名馬になるとはまだ誰も考えていなかったのです。

その後もレコードタイムを連発する快勝ぶりでクラシック戦線が始まる時には、断トツの一番人気に指示されるようになっていたのです。
その期待に応え皐月賞も東京優駿も今までと同じようにレコードタイムで優勝をするも、その後破傷風の悲劇に見舞われ短い生涯を終えることになりました。
完璧な戦歴であったことから生きていれば三冠馬は間違いないとされるものであり、多くのファンから惜しまれることになってしまいました。
しかし、トキノミノルは東京競馬場のパドック脇に像が設置されていて、今なおファンの間で語り継がれ生き続ける馬となったのです。

時代を築いた名馬”トサミドリ”

時代を築いた名馬”トサミドリ”とは

トサミドリは競走馬としても種牡馬としても、日本の競馬の歴史に名を残した名馬となっています。
通算成績は31戦21勝で、二冠を達成した優秀な競走成績を残しています。
馬主は斎藤健二郎、調教師は望月与一郎から途中で稗田虎伊に変わりましたが、安定した経歴を残し続けました。

時代を築いた名馬”トサミドリ”の活躍

後に日本の競馬会に大きな影響を与えるトサミドリでしたが、デビュー時にはその活躍を予想していた人は少なく初戦は5頭立ての3番人気という低評価でした。

ところが多くの人の予想を裏切りレコードタイムでの逃げ切り勝ちという快挙をなしとけ、競走馬として好発進をすることになったのです。

次戦こそ二着に敗れたものそこからまた連勝、再度二着を挟んで三連勝でクラシック初戦の皐月賞へと進むことになりました。
11頭立てで行われた皐月賞では、それまでの実績もあり1番人気にその期待に応える快勝で一冠を手にすることになりました。
ところが続く東京優駿ではまさかの7着に敗れてしまい、ここで初めて戦歴の中で掲示板を外す大敗を喫してしまったのです。
大本命であるトサミドリが敗れたことに加えて、19番人気の馬が買ったということで単勝オッズは554.3倍という東京優駿史上最高の大波乱のレースでした。

しかし、ここから怒涛の快進撃が始まり菊花賞を含む11連勝を達成して東京優駿の無念を晴らすこととなったのです。
その後はトサミドリの実績からすると冴えないレースが続き、ラストランとなる天皇賞秋では最下位に終わり引退をすることになりました。

引退後は種牡馬として第二の馬生を歩むこととなり、期待に違わぬ実績を残すことになり数多くの名馬を輩出することとなり自身が成し遂げられなかった、東京優駿を勝つ馬もでてきました。

時代を築いた名馬”コダマ”

時代を築いた名馬”コダマ”とは

コダマは時代を考慮しても小柄な馬体で、それでいながら二冠を達成し通算成績17戦12勝の好成績を収めた名馬です。
馬主は伊藤由五郎に、調教師は武田文吾でした。

時代を築いた名馬”コダマ”の活躍

コダマの経歴は1959年の9月20日に新馬戦でデビューをして、鞭を使われることなく2馬身半差の危なげない勝利を飾り競走馬として好スタートを決めました。

この時の勝利で早くも東京優駿を見据えたローテーションに切り替えられることとなり、続く宝塚3歳ステークスでも無理に追われることはありませんでしたが5馬身差の圧勝をすることになりますますその期待は高まることとなりました。
続く阪神3歳ステークスでも余裕の勝利を飾り、クラシックへの期待は大きく高まることになったのです。

年が明けてからも連勝は続き皐月賞の前までは5戦5勝という完璧な競走成績を残し、クラシック初戦を迎えることになりました。
皐月賞では1番人気に支持を集め大方の人の予想通り本番でも6馬身の勝利をおさめ、無敗でまずは一冠を手にしました。
そしていよいよ大目標である東京優駿となりましたが、ここでは着差は四分の三馬身しかつきませんでしたが、レコードタイムでの勝利となり見事ダービー馬となることができたのです。

ところがここから華々しい戦歴に傷がつくことになってしまい、脚部不安によって年末まで連敗が続き菊花賞でも5着に敗れ三冠を達成することはできませんでした。

その後もコダマの能力を考慮すると冴えないレースが続きましたが、ラストランとなる宝塚記念では一番人気に応えてしっかりと優勝をすることになり、有終の美を飾り競馬史に名を残すことになったのです。
コダマもまた時代に名を残した、名馬の一頭となっています。

時代を築いた名馬”トキツカゼ”

時代を築いた名馬”トキツカゼ”とは

通算成績30戦11勝と数々の名勝負を飾ったトキツカゼは、戦後の競馬において名馬として時代を作りました。デビュー戦は1946年で、該当レースでは2着だったものの、翌1947年には皐月賞で勝利します。続いて優駿牝馬でも勝利するなどの活躍を見せ、周囲の期待や予想に応えて日本ダービーでも優秀な成績を残しています。

トキツカゼの馬主は川口鷲太郎で、おもな調教を行った調教師は大久保房松です。大久保房松は騎手としても活躍した人物で、調教師としても抜群の腕を持っていました。トキツカゼの父馬はプリメロで、母馬は第五マンナですが、母の父として現役競走馬時代に多くの戦歴を残したシアンモアがいます。

時代を築いた名馬”トキツカゼ”の活躍

戦前から戦後にかけて発展途中の競馬の中で、トキツカゼはカブトヤマ記念や農林大臣賞でも圧倒的な走りを見せて勝利を獲得し、競馬ファンから支持を得ました。

1949年に引退すると、繁殖牝馬として次々に名馬を生み出します。トキツカゼの子供であるオートキツは日本ダービーで活躍し、オンワードゼアは有馬記念や天皇賞といった大型のレースに出走しました。トキツカゼの血を受け継ぐ競走馬としては、ほかにもウメノファイバーやウインラディウス、サンデーウェルなどが挙げられます。競走馬としての競走成績や、オートキツやオンワードゼアを輩出した成績により、1984年には顕彰馬としての栄誉を得ています。基本的に競走馬としてに経歴が重視される顕彰馬の中で、産駒としての成績によって顕彰された馬はトキツカゼのみとなっています。

競走馬としてレースでも好成績を残し、産駒としても強い血統を作ったトキツカゼですが、1966年に静かに生涯を閉じてました。死亡原因は子宮内出血となっています。

時代を築いた名馬”クリフジ”

時代を築いた名馬”クリフジ”とは

名馬クリフジは、日本競馬史上で唯一、牝馬でクラシックレースを3勝した競走馬です。

クリフジは、東京優駿競走(現在の日本ダービー)の1着賞金が1万円だった時代に4万円で落札された高額馬でした。馬主の栗林友二は、同馬の顔を見て良い馬だと直感して購入したと言われています。

その馬主の期待に応えるようにクリフジは戦前の日本競馬において圧倒的な強さを誇りました。通算成績11戦11勝のうち10馬身以上の着差をつけたレースが7度を数え、2着との最小の着差が新馬戦の1馬身、最大の着差が京都農商省賞典四歳呼馬(現在の菊花賞)の大差となっています。

時代を築いた名馬”クリフジ”の活躍

特に東京優駿競走では、鞍上の前田長吉がゴール前で他馬の脚音が全く聞こえず、何かあったのかと何度も後ろを確認したエピソードは語り草となっています。なお、このクリフジの勝利後、牝馬による日本ダービー制覇は2007年のウオッカまで64年もの期間が空くことになります。

こうした圧倒的な競走成績を残したクリフジですが、春の帝室御賞典(現在の春の天皇賞)に出走する際に風邪を引いて同レースを回避すると、そのまま引退し繁殖生活に入ります。主な産駒にオークス馬となったヤマイチがいますが、父系は全滅し、わずかに母系が残るのみとなっています。

しかし、クリフジの戦歴は後世の関係者の大きな影響を与えており、日本史上最強馬の予想を競馬関係者に尋ねたところ、同じく史上最強の呼び声高い7冠馬のシンボリルドルフを管理していた野平祐二調教師は同馬の名前を挙げました。それはクリフジの死後、20年を経過した1984年に顕彰馬に選出された事でも確認できます。

なお、鞍上の前田長吉は、20歳3ヶ月で史上最年少のダービージョッキーとなるなど輝かしい経歴でありましたが、徴兵を受け満州へ出征し、その後、シベリア抑留中に23歳で病死しています。

時代を築いた名馬”セントライト”

時代を築いた名馬”セントライト”とは

セントライトは日本の競馬史上初めて三冠を獲得した名馬であり、その名前は現在もレースの名前に冠するほどのものとなっています。
通算成績は12戦9勝で負けたレースにしても、4着以下に落ちたことがない完璧な競走成績でした。
馬主は数々の名馬を所有した加藤雄策であり、優れた相馬眼を持った馬主だったのです。
調教師は田中和一郎で、こちらも競馬史上に残る名調教師であり数々の名馬を育てあげた人物となります。

時代を築いた名馬”セントライト”の活躍

セントライトはその戦歴の割には初戦はそれほど期待されているものではなく、12頭立ての7番人気ではありましたが2着馬に5馬身差をつけ快勝をしました。

次のレースは現在の皐月賞となるレースとなりましたが初戦の走りが評価をされて一番人気に支持され、それに応えるかのようにしっかりと勝利をおさめることになったのです。

その後も順調に華々しい経歴を築いていきましたが、東京での初出走となったハンデキャップ競走ではアタマ差の2着に敗れてしまいついに連勝はストップしてしまったのです。

しかし、次走の東京優駿前の一叩きではしっかりと勝利を収め万全の状態でいどむことになり8馬身の圧勝をしました。

秋の初戦では68kgの酷量を背負ったこともあり3着に敗れてしまいましたが、その次は同じく66kgを背負いながら勝利しました。
菊花賞直前のレースでは敗れてしまいましたが、これで調整がついたことで本番では勝利を収め三冠を獲得することに成功したのです。

その後は引退をして種牡馬になり、大活躍を期待されるも予想とは裏腹に特別目立った成績を残すことはできませんでした。
それでも現役時代の実績が認められることになり、セントライトは今なお語り継がれる名馬となりました。

時代を築いた名馬”クモハタ”

時代を築いた名馬”クモハタ”とは

クモハタは、第二次世界大戦中には競走馬として、戦後には種牡馬として活躍した馬です。
経歴について述べると、クモハタは1936年に下総御料牧場で生まれ、2歳のときのセリ市で、後に三冠馬セントライトの馬主として知られるようになる、実業家の加藤雄策によって落札されました。そして、この年の秋に田中和一郎調教師のもとに預けられました。調教は順調にすすみ、陣営は3歳に入った頃にはデビューできると予想していましたが、間近になった頃に4本の脚すべてに蹄叉腐爛を発症し、休養を余儀なくされました。結局デビュー戦は目標レースである東京優駿のわずか8日前に行われた新呼馬戦となりましたが、そのレースでは2着に敗れてしまいました。

時代を築いた名馬”クモハタ”の活躍

しかし、初戦から5日後に再度新呼馬戦に出走して勝利をおさめた後、馬主の加藤はクモハタを東京優駿に出走させることを決めます。東京優駿直前の体調は栄養剤入りの豆乳を鼻から流し込まなければならないほどに悪く、当日も出走20頭中の8番人気と低評価でしたが、レースではあえて馬場状態の悪い内ラチ沿いの進路をとった戦法が功を奏し、2着に1馬身の差をつけて優勝しました。クモハタのデビューから東京優駿を制するまでの期間は史上最短記録であり、今のルールでは破ることはできない記録となっています。

時代を築いた名馬”クモハタ”の戦歴

クモハタの戦歴において代表的なエピソードは上記の通りです。クモハタはその後18戦して7勝しましたが、当時の大競走の一つであった帝室御賞典は2度出走したものの、勝つことはできないまま21戦9勝の競走成績で引退しました。
クモハタが名馬といわれるのは競走成績より種牡馬としての通算成績の方が優秀であるためです。クモハタ産駒は現在のG1相当の競走を17勝し、1952年から6年連続でリーディングサイアーとなるなど、戦後の日本競馬界で大きな足跡を残しました。その功績が認められて、JRA顕彰馬の第1回選考で選出されました。

競馬予想と馬の関係

競馬予想には馬の情報が欠かせません。さらに、重要になってくるのは血統。ですが競馬初心者が血統を知ることは非常に難しい状況になってきています。インターネットの情報はまず、メディアに踊らされた情報ばかりですし、未確定の情報ばかりです。こんな時頼りになるのが、業界関係者の情報です。業界関係者は馬の生まれてから調教され競馬デビューするまでの情報を正確に得ることができる唯一の人々です。その方々が情報を流すのは競馬予想サイトとなるわけです。ではこの競馬予想サイトで本物の情報を扱うサイトはどの程度あるでしょうか?実は非常に一部の限られたサイトしか本物の情報は流れていきません。その本物の情報を扱っている競馬予想サイトを比較したサイトをご紹介します。初心者の方は是非活用してみてください。